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クビキの話

原始仏典 スッタニパータ 第1章4節−No.79にはこうあります。

あるひとが訳しました。

『私、釈尊にとりましては、

自分の首に台車に繋ぎ止めるための木製のクビキを付けた牛の役をするのが、

勇敢に修行への「努力」を継続することなのです。』

昨日からずーっとこの言葉をわたし、想っていました。

クビキって見たことないでしょうね。

写真をUpしました。首の周りにつけて、これで田んぼをスキで耕したり、荷車を引かせます。

もちろん、牛にとっては大迷惑なことなんですが、これをつけて人は牛を使役するわけです。

いやだなぁーって、牛は思ってますね。たぶん。痛いしキツイし辛いもの。。

で、お釈迦様は続けてこう言いました。

『これは悟りへの過程の中で、一切が静寂に包まれる涅槃(ねはん)へと誘(いざな)います。

クビキを首に付けて任務を押し進めることは、前へ前へと自分自身を押し上げて行きます。

この継続はもはや、生老病死という人が持つ心配を超えた存在へと、自分自身を至らせるでしょう。』

わたしは、じぶんの首の周りのクビキを考えました。

ああ、そうだ、じぶんにも課せられてる。

嫌な上司、怖いひと、面白くもない権力闘争、見栄、虚栄心、虚しい仕事。。

そういう職場は嫌なんですね。

でも、生活費を稼がねばならないから、このクビキがはずせない。

何度思ったことでしょう。

もっとじぶんが活かせる、のびのびとした仕事に変わりたいって。

我慢するんだけれど、嫌な相手から毎日叱られていると、もう発狂しそうになる。

首の周りに課せられたクビキをはずして投げ捨ててしまいたくなる。

気にすればするほど、どんどん苦痛が強烈に昂じてくる。。

若い時、そういうシーズンがありました。

で、転職したんだけれども、やっぱり人に指図されることが嫌だし、じぶんの本心を偽らないとならなかったりする。

ああ、、、このクビキが辛い。。。

もっと、恵まれたひとっていますよね。

お金持ちの社長さんだったり、政治家だったり、俳優だったり。

そういうひとが羨ましくってならなかったんです、わたし。

六本木の職場ではどうしても嫌なひとっていて、わたしはその人を見ると苦にしていました。

で、こんどは横浜の事業所に移ったら、いままで苦にしなかった相手を苦にし始めました。

わたしの上司筋になったとたんにわたしは苦にし始めた。

やっぱり、変なんですよ、わたしが。

その人自身はすこしも変わらないのに、わたしはじぶんの立場が変わったことで、相手にどこかで脅威を感じはじめたわけです。

よーく考えると、その人一生懸命ですし、公平な人です。

すこしの言葉の行き違いなんかで、わたしはどんどん苦にしたわけです。

わたしが苦にすると、そういうのは相手にも伝染し、双方がぎくしゃくします。

わたしは、新しいクビキをおのれの首に課したんですね。

で、冒頭のお釈迦様の言葉なんですが、

きっと誰にも苦役であるクビキが課せられている。

どんなひとにも辛いお勤めなり定めが課せられている。

知能、環境、容姿、金銭、異性、体、孤独、裏切り、不出来な子ども。。

外見はどんなに楽そうでもどこかに必ず辛いハンディキャップが課せられている。

そうだなぁって思ったんです。

ああ、あの人もクビキが課せられているんだと思ったら、相手を憎んだり羨んだりする気持ちがストンと落ちました。

これは比較の問題ではなくて、

それぞれがそれぞれの重荷を背負って生きていて、それにあえいでいるということでしかない。

そう思ったら、なんだか人たちが切なくなってきた。。

わたしがなぜお釈迦さまの言葉を昨日から考えていたかというと、

わたしはじぶんに課せられたクビキから逃れることばかり考えて生きてしまっていたということでした。

仮に転職しようが再婚しようが転居しようが、また新しいクビキに替わるだけなのなら、

潔くそのクビキという重き荷を背負って生きようとなぜ覚悟をしなかったんだろうかと。

凛として背負って、じぶんはじぶんの勤めを果たして死んで行けばいいじゃないかって。。

そんなことを思ってました。

けっして、お釈迦様のように、「悟りへの過程の中で、一切が静寂に包まれる涅槃(ねはん)へと誘(いざな)」わけれなくともいいのです。

お百姓や職人に苦を背負っても挫けずに耐え、段々といい顔で年を重ねてゆくひとが居ます。

難しい哲学も宗教も語らないんだけれども、なんとも言えない高貴で柔和なお顔になるひとたちがいます。

思考で怨みつらみをグルグルやるんではなくて、淡々と働いて行く。

悟りとか、涅槃というのはどこかの遠くにあるのじゃなくて、きっと、今ここにあるんですね。

それを体現された方々が目立たないんだけれども、いる。

ああ、素晴らしいお顔だなぁ〜って思う。わたしもあのひとたちに近づきたいなぁ〜って思う。

そういう境地のひとたちは、きっとクビキから逃れようとしたこともあっただろうけど、ぐっと踏ん張って超えて来たんでしょう。

苦を乗り越えた先にそのお顔はあるんだけれども、虚栄心も他者評価も他者比較も無いこころに至ってる。。。

なぜ、じぶんは苦を逃れようとばかりして背負えなかったんだろうかって、考えてました。。

でもねぇ・・・

上司やノルマ、時間に縛られたサラリーマンも、口うるさい夫や姑に監視された主婦も、いっぱいいると思います。

それは苦にするなという方が無理ですよ。

あなただって、すごく辛くうんざりすることがあるんじゃないでしょうか。

だれだって、そこから、解放されたいし、逃げ出したいはずなんです。

でも、お釈迦様はクビキを首に付けた状態こそが、おのれを悟りへと導き、

すべての悩みから自分を解放して真に自由にすると言うのです。

きっと、キビキという重荷を嫌がってばかりいると、クビキを見れなくなるんです。

わたしはそれを見てこなかったんです。

クビキをじっと見れば、それは逃れようもない定めで、

そうであるならば、じぶんは覚悟してどう生きるかを選ぶしかなくなるのに、見なかった。

いいお顔のひとたちは、けっして楽になったわけじゃなくて、

見続け、もう執着も欲も手放して、すべきことを淡々と積み重ねたんだと思うんです。

どこかで覚悟したんです、きっと。

逃げようとすればするほど、苦痛が倍化するけれど、

じっと見て生きるひとは、それでも生活できること、それでも家族と居れることに感謝するようになるんでしょう。

そんなことを思って、今日は上司筋といろいろと話し合いました。

彼にはいっぱいクビキがやっぱり課せられてました。

お互い、助け合えることを話しあって、よろよろと二人で前に歩き始めた一日でした。

遠くからわたしたちを見たら、きっとこの写真の二頭のように見えたんじゃないかな。。